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アリヤのゆくえ1
 
ただ今13号の入稿真っ只中です。
いつものごとく、いや、今回はさらに遅れて申しわけありません。

先の震災後、何日か仕事が手につかない日々がありました。私たちのような小さな者が、どんなに考えてもできることは大したことじゃないって、わかってはいますが、それでも今までどおりでいいのかという、自問自答の日々が続きました。

実は昨年から、このアリヤをどう存続させるか、が私たちの大きな課題でした。立ち上げ当初は、できなくなったらあっさりやめよう。というのが私と(神)の間での取り決めでした。まずは3年持てばいいかなと。それは広告を入れずにやる、個人の自費出版の限界地点だと思うからです。

実際、3年待つまでもなく、昨年の春の時点で私たちのキャパはとうに越えていました。無謀にも資金もなく始めたのですから。アリヤの収支は当然のことながら赤字で、私と(神)は食うための仕事を別でやりながら、というのは今さら言うまでもなく、発行からずーっと続いている私たちの日常。それは最初から覚悟の上なのでどうということはありません。アリヤに自分の持ち得るものを全部費やそうと、それはむしろ幸せなこと。世の中の何人の人がやりたいと思うことがあり、またそれに向かっているかと考えれば、それは幸せ以外の何物でもなく。しかし、周りの人たちはどうか。はからずも巻き込んでしまった人たちは、どうか。自分たちの思いだけで、いいのか。

私たちを支えてくれたのは、アリヤを応援してくださる方々に他なりません。福祉関係の方々、販売協力を申し出てくださった方々、いろんなイベントに声をかけてくださった方々、ほとんどボランティアで制作をしてくれているクリエーターたち、印刷代を待っていただいているC印刷さん、そうして毎号購読してくださっている読者の方々。と、気がつけばたくさんの温かい人たちが、アリヤの周りにはいました。だからこそ、単に自分勝手な思いだけでいいのかと、心苦しい日々が続いていたのです。

しかし、私たちは、次を発行できるかどうかの綱渡り状態を、解決する術がありませんでした。ある人は広告を入れたらどうかと、ある人は補助金を申請すればと、ある人は大手の出版社と手を繋げばと、いろいろな助言をいただきましたが、それも私たちは想定済みで。ただビジネス的にやるのであれば、私たちはとっくにそれはやっているでしょう。アリヤは、そんなことでは作れない冊子なのです。

私と(神)が目指したものは、何であるか。

これは、なかなかひとくちで言うのは難しく、また、私の拙い文章で伝えきれるものでもなく。ただ、ひとついえることは、まっとうに、本質を貫きたい、ということだけです。表現を、どこかの地位ある誰かや資金力に左右されたくないということ。少なくとも、メディアはそうであってしかり、だと。それはきれいごとだと言われますが、はい、きれいにやったらいいじゃないかと。天邪鬼の私は、素直にそう思うのです。

安心・安全は食べ物だけじゃなく、情報も同じだと。食べ物がカラダをつくるものなら、情報は心をつくる。誠実に作られる無農薬や有機栽培の野菜のように。顔の見える生産者から、責任を持って届けられる果実のように。福祉という社会の底辺にある(と思われる)現場は、それだけ人の心のありようを強く映し出すものです。また「底辺」に位置づけなければならないということ自体、この国を現すひとつのモノサシでもあります。だからこそ、変えなければいけない。変わらなければいけない。まずは、私自身から。だからアリヤでは、常套手段というものをやめたのです。

さて、話を戻して。
解決法のない私たちは、アリヤを続けるかどうか、ずっと考え続けていました。
「やめればいいじゃないか」という思いの前に、なかなか結論が出せなかった理由は、いろんな人から聞いたこんな言葉があったからです。
「アリヤはもう個人の思いというよりは、社会的な意味を持ち始めている本なんだ」と。

この言葉は結構、私たちには衝撃的でした。少なくとも私自身は、本当に個人的な思いだけで作ってきましたから。「必要な本だから」とも言っていただいたりして、それは何より励みになると同時に、少々戸惑いも隠しきれず。

そうして先月起こった東日本大震災。
直接的には関係のないように思えるこの震災が、はっきりとくっきりと自分の思いを確認させてくれたのです。奇しくもこの迷いのときに。いや、この迷いのときであったからこそ、私は気付いたのです。

そうして、入稿ぎりぎりまで悩みに悩んで出した結論は、次のようなものでした。
(「アリヤのゆくえ2」に続く)

(幸)
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